スフィラスれでぃの試着部屋

いろんな「超入門」を、意識的に単純化して書きます。各分野の専門家ではありませんので、情報の運用は必ず自己責任でお願いします。

【論考】カジュアルって難しいけど楽しいけど難しいんだよね

要旨:カジュアル環境は楽しいが難しい。難しさの理由は主に、「ファン」「カジュアル」等の用語の多義性、攻撃力過多防御力不足の傾向、パワー認識の主観性、の3点にある。

 

◆用語の多義性による難しさ

まず「ファンデッキ」が曲者だ。

「環境デッキ以外」「funnyなデッキ」「カジュアル環境に適したデッキ」等、使用者によって指示内容にブレが大きい。

「ガチデッキ以外のデッキ」という定義はもはや過去のものになりつつある。ガチデッキ以外の強いデッキがとても強いからである。環境デッキのなり損ね(いまだとマリンセス、炎聖騎士、斬鬼等)や一昔前の環境デッキ(いまだと閃刀姫、トリックスター、サイバー流)がファンデッキかと聞かれれば、首をかしげる人も多いだろう。一方で、彼らはガチデッキと戦うには足りない部分があるからこそ現環境にはいないのであり、彼らの活躍の場を求めればガチデッキ以外との対戦を望むほかない。だから、ファンデッキで対戦しましょう、と言っても、相手がどの程度のデッキを持ってくるのか全く読めず、デッキタイプを定義する言葉として十分に機能することができない。

 

それに代わって近年よく使われるのが「カジュアル」である。だが、これも難しい。

第一に、定義があいまいである。私は「相手の行動への妨害が弱い」「ライフを削るスピードが遅い」「ユニークなコンボを使っている」等の要件を漠然と満たすデッキを想定するが、どの要素にどれほどの比重を置くかは人によって異なるだろう。そのような倫理観を前提にデッキを組まなければいけないのに倫理観が多様で、そのことが解釈の不一致を引き起こす。

第二に、第一の要件を満たすデッキを構築することが難しい。カジュアルデッキを握る人は相手のデッキがカジュアルであることへの信用を前提にデッキを構築しているため、その信用を裏切るデッキに対して手厳しい。しかし、現代のカードプールにおいて相手を制圧することやライフを一瞬で削ることは、その気になりさえすればあまりに容易である。現代パワーの誘惑に打ち勝ち、使わない理由を作り、存在意義を他の人に納得してもらえるようなデッキを作成しなければ面白がってもらえない。ゆえにカジュアルデッキの土俵に立てる人がそもそも少なく、よほど環境に恵まれない限り自分が望むようなカジュアルデッキとの対戦は難しいことを理解すべきだと思う。

 

◆攻撃力過多防御力不足の傾向

10期以降のカテゴリのデッキを勝率を最大化するように組むと、爆発力が高く対応力が不足する傾向がある。ここでいう爆発力・対応力というのは、展開力や妨害力とは違って、以下のようなものである。

爆発力:優勢をさらに優勢にする力。制圧力が高い、ライフを削るのが早い

対応力:劣勢を戻す力。相手の展開を抑制する、相手の妨害を踏み越える、ライフを削られにくい

 

爆発力が高く対応力が低いというのは、デッキが回ってアドバンテージを取ることができる状況ならどんどん取ることができるが、アドバンテージを取れる状況に持っていくことができるカードが少ない、という感じである。このようなデッキ同士の勝負は、やってやられて、という状況になるよりも、最初に回りだした方(往々にして先行だったりする)が一方的にアドを取り続けるワンサイドゲームになりやすい。そのようなゲームは基本的につまらない。

 

環境外テーマで爆発力が高く対応力が低くなりがちな理由としてよくあるのは、①展開が召喚権に依存しがちである、②メインギミックに枚数を割かねば安定しないため手札誘発を入れる枠が無い、③展開途中や終着点で環境でも使われている汎用モンスターを用いることができる、等である。

 

環境デッキは、召喚権に依存しない展開ルートや貫通札を持っていたり、優秀な一枚初動を持っていて誘発を多数積めたりするので、爆発力だけでなく対応力がある。だから強力な制圧モンスターの飛び交う環境で生き抜く力を持っている(だからこそ環境デッキになりえている)。しかし、そういった防御力の多くはテーマのメインギミックに内蔵されるものであり、環境外デッキが外付けでそういった力を身に着けることは難しい。一方攻撃力は、強い展開・制圧モンスターを拝借することは比較的容易であり、手に入れやすい。ハリでもVFDでも、出そうと思えば出せる。したがって環境外デッキは、LVやHPは低い勇者が分不相応な強力な剣を装備しており「先に攻撃が当たれば強い」状態になりやすいのだ。

 

◆パワー認識の主観性

全ての環境外デッキが、攻撃力偏重防御力不足というわけではないから、攻撃力が控えめで防御力が高いデッキを意識的に選び、お互いにデッキパワーが同じぐらいのデッキで対戦する、という方針に従えばまったりと殴り合うゲームを成立させることは可能である。

しかし、そこにはさらにもう一つ、究極的に避けられない壁がある。それはパワー認識の主観性である。デッキの強さは様々であり一概に比較できるものではないため、自分と相手の間でデッキパワーの認識にずれが生じる。そして大概の場合自分のデッキは弱く、相手のデッキは強く感じるものである。あるいは腕前に差があり、片方は一生懸命回して何とか勝った気でいても、相手からすれば見知った強い展開をされて順当に負けたと感じている場合もある。これらのことは「勝った側はいい勝負だと思っていたが、負けた側はデッキパワー差で手も足も出なかったと感じていた」という現象をしばしば引き起こす。これはあまり幸せなことではない。そもそも釣り合わないデッキ選択をしてしまったり、思わず相手のデッキパワーに文句を言ってしまったり、お互いに相手と合う強さのデッキを使おうとしてお互いにどんどんデッキが強くなっていったりする。

したがって、環境外デッキ同士の対戦は、お互いが自分のデッキのパワーを正確に把握しようと努めてデッキ選択を行ったうえで、多少格上の相手に当てられてもへこたれないマインドが必要になってくる。したがって、幅広いレンジに対応できるデッキを持ち、自分のデッキに対する正しい理解と、理解のある対戦相手と、それでも生じてしまう認識のずれを受け入れる気持ちが必要である。これらはかなり難しく、最後に立ちはだかる大きな障壁である。

 

◆総括

カジュアル遊戯王は「倫理」の上に成り立っているため、見た目以上に難儀である。

カジュアルに倫理が必要になった背景には、ガチのパワーラインの上昇と、強力な汎用エクストラデッキの台頭が大きいと思う。誰でも使える「剣」がどんどん研ぎ澄まされる中で本体のレベルアップは滞り、攻撃偏重の傾向が高まって自主規制が必要になってきたのである。

それに比べて倫理が不要なガチは楽である。ルールは誰の目にも明確で平等、その中であれば何をしても良い。デッキパワーで勝ったとしても申し訳なく思う必要はまったくない。それは環境理解が正しく、デッキ選択が良かったのだ。しかも、不適切な「剣」に対する二人の強力な番人がいる。一人は「メタゲーム」もう一人は「リミットレギュレーション」だ。この二人は極端な勝率のデッキを勝手に殺してくれる。素晴らしい!

しかし、カジュアルには何物にも代えがたい面白さがあることも、どうやら事実らしい。らしい、というのは、私がその領域に至る前に挫折してしまったからである。デッカス(失礼)の人たちが、実に生き生きと遊戯王をやっていることは、なんとなく聞き及んでいる。ので、カジュアルの難しさを伝えて僕と同じ挫折の道に引きずり込むことは本意ではなくて、むしろこの難しさを分かったうえでカジュアルを楽しんでいただきたいと、思っている。

そして最後に、私の未熟さゆえにご迷惑をおかけした多くのカジュアルプレイヤーに、この場を借りてお詫びいたします……